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NEWSPACE社長ブログ 岳中が斬る
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新聞も書籍も教科書もみんな「キンドル」か

アマゾンが新聞も読める大型画面の電子書籍用端末「キンドルDX」を今夏にも発売するという。いよいよ新聞も雑誌も書籍も教科書も、こうした端末で読む時代になるのだろうか。

 

 

ニューヨーク・タイムズなども記事提供を行うというから、この流れは本物になるかもしれない。いま、アイフォンなどで産経新聞がまるごと紙面大で読めるが、さらに大きな画面でスムースに読めるようになれば、新聞や雑誌の新たな活路になる可能性もある。

 

 

もうひとつ、これが教科書にもなるとなると、影響は大きいだろう。まだ大学やビジネススクールで導入の段階のようだが、これが小中学校にも導入されると、子供たちは、こうした読み方に慣れることになる。

 

電子新聞、電子書籍が印刷文化の復権を現実のものにするかも知れない。端末に3500冊分の書籍類を保存して、好きな時に楽しめるというのも魅力だ。


「広告」と並立する「企画力」

ブログパーツといえば、アクセサリーのようなものとして普及したが、このところ、企業のプロモーションとしても注目を集めている。「東京IT新聞」がブログパーツ進化論として、これを取り上げている。

 

「小パーツからブログ上いっぱいに広がるアニメ、ゲームまで、多種多様な機能を有したブログパーツ。その高い表現力ゆえに、ブランディングやサンプリング、サービスの疑似体験、集客などユーザーとのコミュニケーションツールとしての活用方法に企業が注目している」

 

いま人気の「ブログパーツ.com」の運営会社であるアイオイスクの中田裕さんによると、バナー広告などが自社ウエブへの誘導を目的とした「待ち受け型」なら、ブログパーツは「出張型」。見せるサービスから、体験させるツールへと進化しているという。

 

「(ブログパーツは)従来のようなサービス発信側本位の広告的アプローチでは広がりません。ブロガーに自然に貼りたいと思わせるものを作るために必要なのは企画力です」

 

 

ここがポイントだろう。企業のプロモーションも社会的な広がりやユーザー側からの支持を視野に入れたものでないと成立しなくなったと言っていい。

 

「広告」としてのアプローチに、こうした企画力とユーザー参加の視点を加えたプロモーション手法を駆使することが、勝負どころとなる。


「強欲」から逃れられない?

米国発の大いなる儲け話の虚構が暴露され、その金融工学なる理論のいい加減さが白日のもとにさらけ出されたというのに、かくも簡単に、電話一本で上場予定株の濡れ手に粟の話に乗ってしまうのか。

 

おそらく株を買った人たちは、今の状況を重々承知の上で「これだけはもしかしたら本当では」と思い込んでしまうのだろう。つくつく人間、強欲というほかない。

 

この上場話は論外だが、金融派生商品(デリバティブ)市場というのは高度化した資本主義にとって本質的なもので、虚構だから排除すればいい、あるいは政府が規制や監視を強化すればいい、ということにはならない。

 

産経新聞の田村秀男編集委員が「日曜経済講座」でこう書いている。 「強欲なヒトの手による市場原理至上主義は、『神の見えざる手』と呼ばれる節度ある自由市場原理を破壊した」 「世界金融危機は100年に1度どころか、経済史上未曽有であり、従来の経済理論は役立たない」

 

これは重要な指摘だろう。デリバティブ市場は人類史上、きわめて新しい市場であり、その危機というのは、いまだ人類が経験したものではない事態と考えたほうがいい。

 

田村さんは、そこを踏まえてあらためて提言する。

「本紙が1月から提唱してきた『政府紙幣の発行』『相続税免除条件付き無利子国債の発行』『円建て米国債の引き受け』」

「マネーによる危機はマネーで解決するしかないのだ」

 

マネーはマネーで解決、もその通りだろう。そのうえで、新たな本格的な金融市場の理論化がはかられなければならない。それは単なる規制ではない。新たな市場運営の具体的で適切な手法とその理論的裏付けの問題だ。

 

これにはかなりの時間が必要だろう。それは世界的な課題であって、少なくとも米国流の復権ということですまされるわけにはいかないはずだ。


やはり企画提案力が問われる

商品やサービスを選んで購入するさい、ネットで性能や内容、評判を調べ、価格を比較するというのは、もはや常識となった。

こういう消費者の「行動の変化」は、いうまでもなく企業の広告宣伝やセールスプロモーションのやり方を大きく変える。

「価格比較サイト」が会員数を増やし、広告収入を増やして株価を上げているのもむべなるかなである。

 

 

消費者にいかに接近して、効果的に商品やサービスを訴求するか。それには、消費者が購買行動の影響を受けやすいところで訴えかけるのが一番いい。

 

かくして、ネットや屋内、屋外を問わずデジタル化された多様な媒体を通して、広告やSPを多様に展開するということになる。この領域での手法の開発はすさまじく、まさに百花繚乱といった趣だ。

 

 

一方で、テレビや新聞、雑誌といったマス媒体の広告の相対的な低下が起きている。もちろん、マス媒体の広告としての「威力」が落ちたのではない。

ネットの登場などによって、マス媒体の広告の「価格価値」が落ちたのだ。これがいまテレビ局や新聞、出版社などの広告収入の減少を引き起こしている。

 

それでどう対応したらいいのか。

 

広告やSPの領域に限って言うなら、マス媒体とネットをはじめとするデジタル媒体とをクロスさせて、より効果を高めるという手法を徹底するほかない。

広告とパブリシティー、SPの領域をまたいで、またオンラインとオフラインの境界を超えて、多彩な展開を提案できるかどうかが問われることになる。

大不況の中で、いかに消費者の心をつかむか。発想の新しさが決め手ということに、やはり、なるのだろう。


「知恵を絞る」ほかない

円高が急速に進み、株価は底値知らず、だ。企業も日常の生活も、この危機がどこまでいくのかに、ただ不安を募らせるだけのようにみえる。

 

ただ、これが経済社会の崩壊までいくかというと、そういうわけではない。ついこの間まで「世界同時好況」などと浮かれていたのが、一気に金融バブルがはじけて実体経済も後退局面に入ったということだ。それがあまりに急激に自信喪失したために、右往左往しているというのが現在の状況だろう。

 

 

むろん、この「縮小」は世界規模で起きているために、きわめて深刻な事態であることに違いはない。

 

しかし、こういう状況下であっても、あるいはこういう状況下だからこそ、冷静な見通しと知恵の絞り方によって打開の道も必ず見出せる、ということもできる。

 

 

 

どの業種もそうだが、たとえば広告ビジネスの世界でも、厳しい環境下のなかで、それをチャンスに転化できないわけではない。

とくにテレビや新聞などマス媒体と呼ばれるところでは、いまこそ自分たちの「強み」を再認識するときだろうし、また同時にネットメディアなどとクロスさせることの価値を追求するときだろう。

 

こうしたことは、ここ数年、指摘され、すでにいろいろと試みられていることだが、この大きな景気後退のなかでこそ、チャンスを求めて本腰を入れて取り組むべきことのように思われる。


消費行動の現場での広告は強い

スーパーの店舗に設置されたディスプレーで、特売情報や料理レシピが流される時代だ。売り場の近くで見れば、買い物をしようという客が、それに影響を受ける度合いは高まるだろう。

広告の訴求の直接的効果ということから言えば、テレビや新聞・雑誌などのマス媒体が流す広告情報は、これにはかなわない。とくに、特売情報といった、購買に即、結びつく情報はなおさらだ。

こういったことは、ネットの登場ですでに加速されている。商品やサービスの価格や性能を比較して、購入したり、予約したりという行動を起こす場合、消費者は広告情報を購買のすぐそばまで引き寄せている。

マス媒体による広告は、残念ながら、購買行動の現場からは離れている。その意味で相対的に役割の低下をまぬかれないが、その価値が衰えるということでは決してない。マス媒体が、広く企業のメッセージを流す、その訴求力は、こうした時代にあっても強いものであることに変わりはない。

ただ、商品・サービスの内容、訴求するターゲット、その期間(短期か長期か)などによって、メデイアが選ばれるということだ。マス媒体は、たとえば、ネット上のブログを通じた「消費者との会話」などとクロスすることで、商品イメージを質的に高め、ブランド力を高める役割を担う、といったことだ。

広告・PRということだけをとっても時代は流動的だ。確かに、消費者の周囲にメデイアが双方向的に出現したことは新しい事態だが、そのなかで、マス媒体は自らの「強み」を見失ってはいけない。

ネットと新聞のつなぎ方

新聞や雑誌など活字のメディアとネットとをつなぐ方法はいろいろとある。QRコードでモバイルサイトに飛ぶのは、もう一般化している。

検索ワードを、印刷媒体に露出して、検索の画面を通して、目的のサイトにいくことも広がりつつある。テレビのCMに、検索ワードが出て「くわしくはウエブで」という、誘導の仕方ももうおなじみだ。

新聞の記事情報のなかに、検索ワードを表示したスペースを設け、この広告スペースを、ネット上から申し込みができ、スペースの制作から審査、掲載、決済まで完結するシステムを、ニュースペース・コム社がつくった。当社のオリジナルだが、今回、このオンラインの受注システムを使って、ヤフー社と共同の商品開発を行った。

ちょっと宣伝めくが、共同商品は、検索ワードを表示した新聞の広告スペースに、「Yahoo! JAPANで検索」をデザイン化するものだ。

ネット検索は、商品やサービスを購入するときの下調べや価格比較などに欠かせないものになっている。ほかにも何かを調べたいときの、検索の便利さは抜群だ。
かなりの利用頻度だが、まだまだ中高年層にまで広がっているとはいいがたい。テレビや新聞などから、ネット検索へという流れも、これからさらに強まっていくものだろう。

そうした流れに一役買いたいというのが、共同商品開発の狙いだ。
新聞で知る、ということが、ネットで検索ということともっと親和してほしい、と考えている。

「三井の住まい検定」にチャレンジを

ネット上のコミュニケーションは、さまざまな使われ方をしている。ときに悪用されることもあるが、多くの人たちがブログなどを通して、自らの思いや意見を発信するというのはいまやひとつの「文化」だろう。

企業にとっても、情報を発信するさい(あるいはキャンペーンなどを展開するさい)、一般の消費者が、それをどう受け止めて、どう発信してくれるかは非常に重要なポイントになりつつある。ユーザーの間での、自主的な情報の広がりこそ、企業側が求めるものでもあるだろう。

そんな情報の広がりを創るもののひとつに「プロモーション検定」がある。だれもが参加して、問題を解く遊び心で、楽しむことができる。
「三井の住まい検定」もスタートしたばかりだが、ネット上で広がりつつある。遊び心で参加して、そこで企業側のメッセージが一人ひとりの参加者に伝わることがもっとも大事なことだ。

クロスメディアの流れが加速する

マス4媒体などオフラインとネットのオンラインとをより深くリンクさせたクロスメデイアの広告展開については、かねてから必要性が言われてきた。これまで、なかなか有力な商品と、効果を裏付けるデータがなかっただけだ。

先日、電通IC局が、テレビCMにおける「詳しくはウエブで」(検索ワード)を入れたものが、実際に検索数をどれだけ増大させたかを示すデータを提示して、クロスメディアに対する新たな「論理」を示した。

調査は同様に新聞についても行われ、有意味なデータが提出された。かなりの長期間、規模において詳細なデータが取られており(オーバーチュアが調査に協力している)、マス媒体から「検索ワード」を通じてネットへと誘引するクロスメディアに関する初めての本格調査といっていい。

電通IC局では、さらに調査を進め、マス媒体とネット広告における最適なクロスメディアはどういうものかを検討し、具体的な商品プランにまで落とし込むという。

同局の考え方は、要点をいうと、マス媒体の広告がブランディングというベースの効果をあげ、これがネットの検索連動型広告における、基礎的な「広告支持率」を形成するというものだ。

検索数をアップさせるネット上での対策は、もちろん有効だが、それだけでは十分な費用対効果とはならない。広告支持率が高ければ、検索対策に巨額の費用をかけるより効率的に、検索数アップにつなげることができる。

つまり、ベースとなる(広い対象に向けて、時間をかけて醸成する)広告があって、検索連動型の対策がより効果的に生きてくるというわけだ。

もちろん、これからはネット広告でもブランディングが課題になってくるだろうし、これだけで、マス媒体の広告が「絶対不可欠」ということにはならないが、これによって、マス媒体のクロスメディアとしての位置づけがあらためて行われるだろう。 

ただし、そのためにはマス媒体の方も、従来の枠にこだわらず、よりネットと親近する「改革」をしなければならない。電通が本格調査をもとに、クロスメディアの新たな論理を提案した影響は大きいのではないか。

 

 


なんでも簡単にすればいいというものではない

洋画を字幕で見るか、吹き替え版で見るかは、それぞれであっていいが、字幕が読めないので、なんでも吹き替えにするというのは、ちょっと情けないのではないか。


「ソ連」や「ナチス」を知らないというのは論外として、字幕が読めないので、言葉を少なくし漢字も最小限にせざるをえないという。

映画は「楽しければいい」というのは当然だが、そこには広い意味で、未来や現在や過去という時代を感じ取る楽しみもあるはずだ。映像が強烈であればあるほど、言葉も強いものでなければならない。


漢字でいえば、これも簡素化し簡便化しようという動きがずっと続いてきた。「難しいもの」は避けようという流れだ。これに対して、産経新聞の塩原経央さんが「新国語断想」で、こう言っている。


「文字はそれによって思いを巡らし、思いを伝えた遠い祖先の知恵や知識をそのままにとどめている。(中略)一時代の便宜に供するためだけにあれこれいじくり回すのは、現代人の傲慢というものである」
「それでもというなら、字種や字訓を大幅に増やすか、制限色を完全に取り外して、ルビ活用を明記する配慮が望まれる」


「漢字は難しいもの」というのは先入見にすぎないことも塩原さんは指摘している。なんでも簡便にすればいいというものではない。効率化すべきところと、困難でもあえて噛み砕くべきところとを見分けることが肝心だろう。

消費者の「参加」がカギ

「検定」が人気だ。漢字検定や英語検定はよく知られているが、ほかにも専門的な検定からお遊び的な検定まで広がりをみせている。 人間の知的な好奇心は、政治的な、あるいは社会的なテーマにももちろん向けられるが、主要なテーマより傍流のささいな事柄、オーソドックスなことよりマニアックことへと向かう好奇心も根強くある。問題が投げかけられると、つい答えに頭がいってしまうのは、本能的なものだろう。 検定は、企業が新しい商品やサービスに関心を向けてもらうための「入り口」としても有効な役割を果たしている。それは、単に「宣伝」ととらえられるのではなく、新商品や新サービスをより詳細に認識してもらうための「問題」がまず提出されるため、そこに、問題を解こうという消費者側の「参加意識」が働く。 もちろん、問題が面白くて、まさに知的好奇心を刺激したとしても、肝心の商品やサービスの魅力がなければ消費者の心は離れるだろう。 ただ、今は優れた商品やサービスがテレビや新聞などマス媒体を通してPRすれば売れるという時代ではない。マス媒体での宣伝と販売との間に、消費者の「選択」の意思が介在する。むろん昔も介在したが、今はその介在の度合いが非常に高い。 ネットが双方向的な機能を拡大したことで、企業と消費者の間の相互理解のやり方も格段に広がった。GTの内山光司さんが「宣伝会議SIMCフォーラム」でこう言っている。 「会話とは相互理解を促す上で最も効果的な手法だ。企業への理解度を深める手段として、会話構造を生かした各種のコミュニケーションが注目を集めると見ている」 「ネットの普及を背景に、消費者は自ら情報を取ろうとするなど、『学習』する存在となっている。こうした環境下では『何を伝えるか』ではなく、『どうやったら関心をひけるか』に着眼することが重要だ」 ニュースペース・コム社でも、企業の「検定サイト」構築と、このサイトへの誘引やキャンペーンをオフラインを含めたさまざまな媒体を使って広く知らしめる手法を開拓している。 内山さんは、消費者との絆(エンゲージメント)を深める手法は、なにもネットやマス媒体だけではない。ユーザーの関心をひく、いろんな「現場」がある、と言っている。

消費税アップには前提がある

福田首相が消費税の10%上げに舵をとりそうだという。消費税アップは国際的な流れであり、日本にとっても以前からの懸案の事項だ。税制改革を根本から考えるなら、当然、視野に入るべきものだ。


現代の資本主義が「消費資本主義」とも呼ばれるように、生産と消費は経済社会の大きな2軸になっており、その一方の消費行動に対して相当の課税をするというのは妥当な考え方だ。これを、ただ「大増税路線」なる言葉でひとくくりしてはいけない。


ただ、税制改革という広場で議論するといっても、現在の様々な問題(道路財源や年金などがかえる問題)のなかで、舵取りをひとつ誤ると、福田首相は袋叩きに会うだろう。


消費税の大幅アップには、大きな前提がある。いうまでもなく、所得税の軽減であり、法人税の軽減によるサラリーマンらの所得の向上である。こうしたことで、消費が活性化するということだ。


もうひとつは、税負担が総合してやや重くなったとしても、それが社会福祉のビジョンとして、安心感を与えれば、それは是認されるだろう。年金の安定であり、高齢者を含む医療制度の是正であり、育児や介護などの制度整備が十分に進展することだ。


さらにいえば、行財政改革と公務員改革によるムダの排除である。


増税には、ビジョンがいる。

世界市場の構造変化、アフリカが注目だ

サブプライム問題はまだまだ深刻なようだ。これは、すでにアメリカ経済そのものにも影響を与えており、金融・証券市場を離れた投機マネーが商品市場に流入して、資源高騰に拍車をかけてもいる。


問題はひとつのバブルの崩壊にとどまらず、世界市場の構造的な変化をもたらすだろうというのは、世界の専門家の見方だが、まず、アメリカ経済とドルのこれまでの圧倒的な世界支配が、相対的に(あくまで相対的に)低下する、ということがいえるだろう。


もちろん、これでアメリカ経済の強さが失われるわけではなく、またヨーロッパ中国などの新興国が一気に強力になるわけでもないが、世界経済がいっそう多軸化し、また重層化するのはまちがいないだろう。


日本の企業の「世界企業化」も進んでいるが、これもアメリカ重視から、新興国などへと軸を移し、また構造的な変化に対応して多様な展開を迫られるだろう。


こうしたなかで、「アフリカ」が注目を集めている。

岡本行夫さんが産経新聞で「アフリカが歩き始めた」と書いている。
「今、世界で起こっていることは、すさまじい勢いでの国家関係と経済競争の変化だ。アフリカの人口は9億人を超える。以前は人口の多い貧困地域では経済成長などおぼつかなかったが、今は逆に人口の多いところが伸びていく」


しばらく前だが、ビジネスウイーク誌でも「欲望だけがアフリカを救う」という面白い記事を載せていた(日経ビジネスオンライン)。


それによると、いまアメリカなどの投資マネーが、アフリカの国々(とくにサハラ砂漠以南)に注目し、投資熱が高まっているという。


世界市場の構造的な変化の中で、アフリカに対する動向が、ひとつの重要な指標になるだろう。

新聞広告もネットから申し込み

ネット広告をネットから申し込むというのは当たり前のことですが、テレビCMや新聞広告、交通広告もインターネットから申し込みができるサービスが広がってきています。

 

テレビCMは一部でスタートしており、新聞広告についても電通が、「突き出し広告」について全国の新聞でサービスを開始しました。博報堂も、不動産など業種を決めて、地方紙で販売を始めています。

 

先月は、オリコムが交通広告について、ネットで媒体枠を確保し、原稿制作もできる専用商品「東京中吊り広告セット」の販売サービスを始めました

 

わが社でも、新聞とネットをクロスする広告商品「ニュースペース」を、ネットで申し込める代理店向けサービスを行っています。希望する新聞掲載面や期日の指定から、ニュースペースのフォーマットをもとにした原稿制作、広告審査などのチェックがネット上で完結します。

 

簡単に新聞広告を利用してもらいたいというのが、最大の狙いです。このオンラインサービスをどう拡大していくかが課題ですが、今後は地方企業や公共団体などにも利用していただければ、と考えています。

 

 

 


媒体ではなく情報の内容が先にある

「日本を代表するクリエーターのひとり」といわれる、佐藤可土和さんの話が興味深かった。「クリエーティブから見たインターネット」というタイトルで、こんなふうに話しています(日経ビジネスオンライン)。

                                                                                                                 

                                                                               

「(私は)様々なメデイアで仕事をしています。ただ、メデイアごとに特性はあっても、本質的なところは変わらないと思っています」

「(デザインする場合)インテリアかプロダクトかWebかによって作り方は違いますが、意識はしていません。メデイアごとに(デザイナーを)規程してしまうのは日本だけ」

インターネットについても、佐藤さんは、これを新しいメデイア、有力な表現手段として大きな可能性を見ているが、これを媒体の中で特別に位置づけることはしていない。

                                                                                               

                                                                            「インターネットは爆発的に進化しているので面白いですが、でもそれはそれです。雑誌や新聞、書籍も十分に意義を持っています。まず、コンテンツは絶対に面白い必要があります。何をやるかが重要で、メデイアはそこを表現する媒体、箱に過ぎません」

「僕はどんどんひいて見るようにしています。ひくことで本質が見える気がするんです。色々なメデイアを使っているから、インターネットに対するあこがれも嫌悪もなく、フラットに優劣をつけずに見ています」

                                                                           佐藤さんは自分の本「超整理術」を、はじめからネットではなく書籍で発表しようと考えていたといいます。それは、このコンテンツにとって書籍というパッケージが最適と思ったからだそうです。 

「コンテンツにあわせたパッケージ、メデイアを選ぶべきだと思います。メデイアは使うものであって、使われるものではありません」

                                                                             ネットの登場の画期的な意味は、マスメデイアを含め、メデイアを相対化し、フラットにしたところにあるのではないでしょうか。そのことによって、メデイアを使う、という人種が現れた。表現する、ということにおいて、まず表現すべき(表現したいという)内容(コンテンツ)があって、また、だれに向けて伝えたいか、という受け手への期待(想定)があって、それにふさわしいメデイアが選ばれる。 

                                                                            

メデイアの側にとっては、自らの特性、強み・弱みを十分に自覚することが決定的に重要なことになります。 

 


2008年は「不安の1年」

2008年が動き出しました。「希望」を語りたいのですが、今年の経済の予測には「不安」の文字が目立っています。

東大経済学部長の伊藤元重さんは、長引くサブプライム問題や原油高、米大統領選の行方などをあげて、「今後の(政治や経済を含めた)社会の動きが見えにくいという意味で、『不安定感』が2008年のキーワードになってくる」と言っています(「宣伝会議1月1日号)。

同様に、国際通貨研究所の行天豊雄さんも、2008年の世界経済を「ずばり、『不安の1年』ではないでしょうか」と予測しています(日経ビジネスオンライン)。

行天さんは「世界全体の秩序、パラダイムが少しずつ変わってきています。変化のモメンタムは確実に働いています。ある量的レベルまで来ると、クリティカルマスを超えて、一気に変化が進む。そういうプロセスが進んでいるのです」と指摘して、「戦後60年の世界経済をリードしてきた米国経済に対する不安が、非常に長いプロセスを積み重ねた末に、ここ1~2年でかなり具体的な形で表れてきている」と言っています。

 そうしたなかで、日本はどうか。「日本経済に対する国際的な見方は、あまり将来性がない、と思われている」と行天さんは指摘しています。世界が大きく変わろうというときに、日本は変革に正面から向き合っていない。改革も中途半端だ。行天さんは、日本に「変化に真正面から対峙する決意」を求めています。

大きなパラダイムの変化の時代には、危機を深く認識して、これをチャンスに変える勇気が求められます。

しかし、この変える勇気、新しいことに挑む勇気が、なかなか難しいから、人も企業も社会も悩むわけです。

とはいえ、メデイアの世界も、広告の世界も、こうした大きな変化のまさに渦の中にあります。 

危機はすでに、そこにある―もう否応なく、新たな対応を迫られているのですが、こういうときこそ、メデイアなら、それぞれのメデイアが持つ特性、価値を忘れてはならない。その価値を踏まえて、そこに安住するのではなく、そこを踏まえて新しい価値を付加していく、あるいは新たな分野に広げていくのでないといけない、そういうふうに考えます。 

 

 


広告もサラウンドシステム時代

前回、「絶品チーズバーガー」の口コミプロモーションの話を紹介したが、日本コカ・コーラの実証実験を書いた「『ネット広告万能』の死角」(日経ビジネスオンライン)がまた、興味深かった。概略を紹介する。

日本コカ・コーラは今年1月-3月の「コークのきいた人生を」というキャンペーンにおける、広告予算の配分を見直して実験した。

第一に「テレビCM偏重だった広告のあり方に予算の面からメスを入れた」。

70%だったテレビCMを37%に減らし、屋外広告に40%、交通機関での広告に11%、ラジオCM5%、雑誌5%、オンライン2%とした。

そして、広告媒体と誘引効果の相関関係を「ROMO」といわれる手法で分析した。その結果は「週1回以上は飲むようになった」人は、最大のきっかけになった広告媒体として、交通機関での広告をあげた人が最も多かった。費用対効果の面でも、交通広告が高かった。

従来どおりの配分での展開も行ったが、狙い通りの有効な結果はでなかったことなどから、日本コカ・コーラでは、以後の広告予算の配分の「最適化」を断行した。

それは、テレビCMの比重は依然高いが、交通広告や屋外広告の比重も高めたものになった。

「異なるスピーカーが出す音を反響させて音を豊かに演出する『サラウンドシステム』のように複数の媒体を調和した形で同時に機能させたほうが、一つの広告媒体よりも強力な効果を発揮する」

こうしたキャンペーンと配分見直しによって、日本コカ・コーラの1月から9月の売上高は、前年同期の13%増となった。過去30年間で最高の伸び率という。

マス媒体、オンラインも含め、「複数の広告媒体を組み合わせて最大の効果を発揮することを常に模索することが必要」な時代になった。インターネットも「万能」ではない。この流れが加速することは間違いない。

 

 


メデイアの位置とそれぞれの価値

キシリトール仕掛け人の藤田康人さんとサイバーエージェントの須田さんが、ロッテリアの「絶品チーズバーガー」の口コミプロモーションを展開している。



藤田さんの「現在進行中! 今仕掛けている口コミの作り方」(日経ビジネスオンライン)によると、この「おいしいコト伝えたい」プロジェクトに、マス広告は一切使わない。


まず、はじめにマス媒体で、PRを行う。テレビ番組や新聞各紙で一般のニュース・話題として取り上げてもらう。一般情報だから、ネット(ニュースサイト)でも、取り上げてくれる。これによって、情報は格段に広がる。藤田さんらの狙いのポイントの一つはここにある。


次の取り組みが、ネットのブログとロッテリアの店頭でのプロモーションだ。ここにも仕掛けがしてある。それは「消費者代表」の学生を「インフルエンサー」(影響力を持つ人たち)として組織し、「学生マーケティングコンテスト」を展開することだ。



ちょっとこれも、宣伝への「動員」ではないか、と思わせるが、学生たちの面白がったいろんなやり方が「消費者の目線」を失っていないことが、ここでの最大のポイントだ。藤田さんは、ここのところを「口コミはやはりコンテンツの強さと伝える人の熱意が必要です」と述べている。



ネット上に誰もが気軽に参加できるブログと言う語り(口コミ)の場所があるということが、藤田さんらの「マス媒体でのPR+ブログ+店頭」という、クロスメディアを可能にし、また有効なものにしている。



ここで重要なのは、マス媒体、ネット、店頭でのそれぞれの位置と、それぞれのもつ宣伝・PRの価値とがよく理解されているということだろう。広く知らしめるところと、消費行動へと直接的につなげていくところでは、その役割も使い方も異なる。ネットにおけるブログやSNS、動画投稿などの登場は、消費行動に移す前に調査検討する段階があり、事後に情報の共有の段階もあることと深くかかわっている。



生産(企業)と消費(消費者)は、ひとつのプロセスであり、それは必ずしもパラレルではない関係をもっているため、広く知らしめることから、消費行動へとつなげていくには、いくつかの階梯を踏まないといけない。一つのメデイアに広い認知から消費への誘引までを負わせるのは、おそらく今の時代に即していない。マス媒体はネットや店頭とつながらないといけないし、その間をつなぐメデイア(手法)もまた必要となる。


ひとつのメデイアで十分と言う場合ももちろんあるが、それぞれの媒体の位置や特性を活用して、最大効果をあげるということが、これからますます有効になるのは間違いがない。なぜなら、メデイアの多様化と価値の相対化がこれだけ進むと、また、生産(商品)の論理と消費の論理の双方を包括しないといけないとなると、広告とPR、マスとネット・店頭を統合した手法が必要になるからだ。 


すばらしい日本人がいる

最近の世の中の動きをみていると、腹立たしいことや情けないことが多い。そんななかで、この記事には、すがすがしいというか、こんなすばらしい日本人もいるのかと、久々に心が動いた。

 

産経新聞1面連載の「やばいぞ日本」第5部「再生への処方箋」の2回目の記事だ。田村秀男記者が書いている。全世界の移民労働者とその家族に、低利の少額無担保金融サービスを提供する「マイクロファイナンス」社長、とち迫 篤昌さんの話だ。

 

とち迫さんは54歳。少年時代に、母親の背中をみて、給食代金の袋を出しそびれた、という経験を持つ(父親は傷痍軍人だった)。旧東京銀行時代に、留学先のメキシコの貧しいインディオ一家と交流するなかで、「底辺の人々のためになる金融サービスはできないものか」と思い立つ。

 

 

ここからの挑戦がすごい。日本人の出資の協力もあったが、みずからアメリカでMBAの資格をとり、米金融界に働きかけて、ついに夢を実現する。しかも、しっかりとしたビジネスに育て上げ、その送金決済のネットワークを独り占めにしないで、世界の金融機関に開放することもしている。

 

 

田村記者は、世界の移民問題の解決という巨大な実験になるかもしれない、と述べ、最後に「移民労働者と同じ目線が、日本モデルとえるとち迫モデルの強みだ」と書いている。

 

 

世界の中でこそ、日本の役割が問われている。そこに日本再生の処方箋をもみることもできる。世界に通用するレベルであることは当然だが、それが日本の歴史と特質とを踏まえたものでなければならない、というのもまた当然だろう。


防衛産業が特別では、おかしい

ゴルフに融資という名の資金提供、加えて「おねだり妻」では、怒るより唖然とするほかない。トップ官僚だから清廉潔白であれ、とは誰も言わない。すねに傷のいくつかはあるものだ。ただ、妻ともどもここまでやるかね、というのが一般人の感想だろう。

東京地検特捜部の捜査もここまでくれば、もはや守屋ご夫妻の話にとどまらない。

産経新聞の伊藤記者が「山田洋行幹部は『ウチがやってきたことが犯罪なら、防衛商社はすべて犯罪者集団』とまで言い切った」と書いている。

また、「官業のパイプはこうした接待攻勢に加え、防衛官僚の天下りを受け入れることでさらに強化された」と指摘している。 

天下りとキャリア制度の廃止という、国家公務員制度の根幹にかかわる改革が必要なゆえんだろう。

 もうひとつある。

世の中、食品業界をはじめ、内部告発の嵐もあって、厳格な法令順守を余儀なくされている。これはこれで当然だが、多くの業界が経営を直撃する重い課題を背負わされている。

それなのに、防衛産業だけが、法令の適用外、刑法すらわが領域には及ばないといわんばかりなのは、許されるはずがない


「愛のあるマーケティング」

食品の表示偽造、誤表示が続いている。あの「崎陽軒」もシウマイの原材料表示に誤りがあったという。まだ詳細は分からないが、こうしたことの背景には、ブランドや老舗の価値についての読み違いや誤解があるように思われる。

どういうことかというと、のれんの価値というのは、もともと企業価値の大きな部分を占めるのに、売り上げ高や営業利益といった経済的価値(数字で表される)より下位にあるとみる、誤解のことだ。

そんなことはないのであって、のれんやブランドは確かに長い時間をかけて創り上げられる精神的な価値ではあるが、決して、経済的価値に劣るものではない。ただ、経営の数字ははっきりと見えるし、分かりやすいから、それを目先のこととは知りつつ、つい追ってしまうのだ。これは企業価値をトータルにとらえたものとはいえない。

関橋英作さんの『マケティング・ゼロ』(日経ビジネスオンライン)に「愛のあるマーケティング」という文章があって、これがなかなか面白い。

「皮肉なことですが、現代人が時間を失うことによって、時間の貴重さに気づき、モノの交換の底流にある『愛』に触れる。人間はくるくる回っているんだなあ、と思わされました」

関橋さんは、人に『愛』を贈る、贈与の精神が、マーケティングの原初にあったものだと言う。時間の重要さに気づいた消費者は、「ココロの充足、最高のおもてなし。すなわち愛」を求める。

消費者が経済社会の一方の主役に明確に登場した今、企業は、その消費者の単なる購買や消費の行動だけを見ていればすむのではなくなった。消費者のココロ、その充足感や安心感まで視野にいれなければならなくなった。この新しい事態の中にこそ、老舗ののれんの価値の復活があるのだ。

ここを読み誤ってはいけない。

 

 


国家公務員改革の後退は納得できない

ちょっと堅い話になりますが、きょう(11月26日)の産経新聞「正論」欄で、政治評論家の屋山太郎さんが「天下りに大甘な福田政権」と題して、公務員制度改革の後退ぶりを厳しく断じています。

屋山さんの論点は、簡単に言うと、官僚の天下りのために、年金福祉事業団やら緑資源開発機構なるものが法律化され、全くといっていいほど不要な事業がつくられているという点です。巨額の税金が、ただただ官僚の天下り(自分たちの身分保障)のために浪費されているわけです。

これがどうして生じるかと言うと、官僚制度が「キャリア制度」になっていて、同期が次官などになると、一定の年齢で他はやめざるを得ない。その受け皿が必要なために、次々に不要な事業がつくられていくという構造になっているわけです。

これを改革するのが①官民交流センター②キャリア制度の廃止ーだったのですが、福田政権は官僚主導の政治体制(明治以来の官僚内閣制)を温存するような言動を続けています。

ところで、「今週の世論調査から」(産経新聞)をみると、次の衆院選で投票するところは、民主党が26%で自民党は23%。解散総選挙の時期は、予算成立後すぐが39%で、年内をあわせると55%になる。

年金改革や地方振興に加え、この公務員改革を進めないと、与党政権は危ういのではないか。

 

 

 

 

 

 


広めたい「お祝いスペース」

きょうの産経新聞の1面と第3社会面に明治記念館のニュースペースが掲載されています。社会面の方をみていただくと、「ご婚約おめでとうございます」という、お二人のお祝いスペースとなっています。

実は「いい夫婦の日」にあわせて、明治記念館とニュースペースでコラボした新しい結婚告知のスタイルです。新郎新婦のなかには、照れくさいという向きもあるかと思いますが、広く知ってほしい、あるいは、いい記念になる、という方も多いのではないかと考えます。

新聞紙上だけではなく、QRコードがついていますので、ここから、二人の写真やメッセージ、式の模様などが伝えられるようになっています。さらにここから、いろいろと友人知人でコミュニケションを広げることもできます。 

式の当日に掲載すれば、結婚した記念の日の世界や日本の出来事が、そっくり思い出とともに保存することもできます。どうでしょう。これ、広めていきたいんですけどね。

 


ブログ開始 「悲観論は当たらない」

ニュースペース・コムのホームページを大幅にリニューアルしました。皆さんに楽しめる、かなり本格的なサイトになったのではないかと思います。これを機会に私のブログも立ち上げました。すでに産経デジタルのニュース・記者ブログサイト「iza」でもブログをはじめていますので、少しダブルかもしれませんが、両方ご覧いただけると幸いです。

広告業界の話だけでなく、産経新聞の社会部記者時代、あるいは編集長時代を思い起こしながら、広く世の中の出来事に発言(ときに失言もありそうですが)していきたいと考えています。


さて、いきなり世界経済の話ですが、サブプライム問題で、これが想像以上に各国の経済に影響を及ぼしています。とくに日本の場合は、直接的影響もさることながら、円高と石油高が加わって、これも当初言われていた以上に打撃となって現れてきています。

そういうことで、広告業界も、ネット広告などを除けばどこも厳しい状況のようです。なかなか先の展望が開ける材料が見当たりませんが、そんな中で、ちょっと元気が出る話を見つけました。

「“自虐的な”悲観論で自らの評価を下げている(マス)メデイア」
こう題したインテグレード代表、藤田康人さんの話です(日経ビジネスオンライン)

藤田さんは
「消費者がマスメデイアに接触する時間が減っているのは、どの調査を見ても明らかです。しかし、だからといって、ネットやモバイルがメデイアとして、既存のマスメデイアに取って代わる存在になる、とは私には思えないのです」
「(マーケッティング業界で仕事をしていて)そこで感じるのは、いかにマスメデイアが消費者に対して強い影響力を持っているかということなのです」 といっています。
さらに実際、「我々がPRプランを作る際にも、まずマスメデイアに情報を露出させることがファーストステップです。そこからネットへの波及を狙います。数あるネットメデイアに直接アプローチするよりも、新聞の全国紙などに掲載されれば、かなりの確率で、ネットに情報が自動的に流れていきます」と述べています。


藤田さんは「マス広告の悲観論」は自らが自虐的に流して必要以上に風評被害を受けているのではないかと指摘しています。ただし、従来の広告スペースを販売する、そこを埋めるというスペースブローカー的な方法ではダメで、消費者と企業(広告主)の商品やサービスを結びつける(エンゲージ)には、どこでどういうメデイアを活用すればいいかと言うPR的発想(クロスメデイアプランニング)がなければ、マスメデイアも自らを生かす道はないと、言っています。


私たちニュースペースも、藤田さんの言うPR的発想をもって、新しい広告スペースの提案を行っています。藤田さんは、雑誌の未来について「雑誌+ウエブメデイア+モバイルの連合で、新しいクロスメデイア広告商品を開発するとか、新たなビジネスチャンスは無限にありそうです」と話しています。

大いに参考になる話です。

解散風は止まない

与党幹部が解散風の吹き消しに躍起なようだが、大連立構想が再浮上しない限りは風が止むことはないだろう。解散を否定すればするほど、現場は疑心暗鬼で選挙の備えに走ってしまう。


そんななかで小沢代表が朝日新聞の長いインタビューに答えている。

「(首相問責決議案は)まだ考えていない。(特措法は)参院に来たばかりだ。心配ない。見ていれば分かるよ。フフフ…」

「衆参で勢力が違っているときの政策協議は、連立協議と同じようなものなんだ。連立を否定している限りは、基本的な問題の政策協議はできない。ケリつくまでやりましょうと、デスマッチみたいなものだ」

「(あとは選挙に全力投球か、と問われて)少しゆっくりしてからだ。運動量で自民党に負けないようにすれば勝つ。自民党の半分でもやれって言うんだ。ほんとにもうイライラする」


小沢代表は総選挙について「野党で過半数でいい」「最低でも野党連立までいきたい」と明言している。


小沢さんの狙うところは、はっきりしているのではないか。もはや「デスマッチ」なのだから、いきつくところは明らかだ。小沢さんは、選挙の戦い方も、勝算も、その後の態勢まで語っている。

「選挙で勝つ以外ないさ」



今度は国民が選ぶ番だ。自公連立か、野党連立か。
ただ、小沢さんは、選挙の論点は「生活だ」といっているが、信を問うなら、「安全保障」の問題も問うのでなければならない。これも争点は明確になっているのだから。

表示偽装と外食の隆盛

「白い恋人」が販売を再開する。少しづつ売れ行きも回復していくのだろう。反省が生きれば、それはそれでいい。しかし、それにしても「船場吉兆」の、偽装を現場のパート女性に押し付けるという取締役とは、いったいどうしたことだろう。


内部告発の制度が整って、おかしいと思う声が表に出るようになった。この重大性を経営陣のほうが、十分に認識しえていないというのが、船場吉兆のケースだろう。あれほどコンプライアンスがいわれながら、売上の論理が優先する。


「味」を何よりも優先するのが、伝統と格式を誇る料亭の哲学だろう。これがあれば偽装はありえない。仮にあったとしても、常態化したり、会社ぐるみであったりはしない。「味」を何よりも大事にする「のれん」の価値は、哲学としての精神的な価値であって、同時に経済的価値でもある。


この「のれん」の経済的価値は、トータルとしての企業価値であり、売上を高めるという論理と相反するのではなく、直結している。企業の「業績」という数字の価値が優先すると、企業の精神的な価値がうすれていく。しかし、企業を含む現在の経済社会は、発言する「消費者」の存在をますます大きなものにしている。そこでは、企業の精神的な価値こそが、その企業にとっても大きなものになっていくはずなのだ。


賞味期限や産地の偽装、売れ残りの再販売という事態は、企業が自らの価値の範囲に、消費者の存在を十分に入れていないところから生じる。これは、外食の一般化と隆盛の流れとも関係している。

外食する消費者の要請に、外食産業のほうが応え切れていない。「食」が家庭から社会へと拡大して、消費者も家庭での「食」を軽視しはじめたことのツケを払わされているのであり、一方で、外食の企業は、まだ「食」を担うことの重要性(これこそ企業価値を形成する)に十分には気づいていないのだ。

政治リーダーの重圧

福田首相と小沢代表の「大連立」に向けた政治的賭けが一瞬、クロスして、実ることなくいったん遠ざかった。この両者の接近には、「旧来の政治的野合への後退」「安全保障上の重要な選択を密室で決めようとする、許されざる行為」と批判が強い。


産経新聞紙上では、櫻井よしこさんが「首相は国会で小沢氏の主張を論破せよ。信念をもって、衆議院の3分の2条項を用いる覚悟で閉塞状況を打破せよ。その信念をこそ、国民に問え」と述べ、田久保忠衛さんも、連立構想での福田首相の妥協ぶりを「理念なき政権のみせた醜態」と断じている。


小沢代表の辞任表明ー撤回留任というのも、いかにも子供っぽく、党首失格と言う批判も当然出てくるだろう。大連立から、一転、衆院選での決戦態勢といっても、それだけ求心力をもてるかどうか。


自民党にとっては、戦後レジームからの脱却という大きな政治目標を掲げた安倍政権の思わぬ挫折と、それによる「中断」がやはり大きい。福田首相の選択肢はきわめて限られている。そのなかでの大連立構想ということはみておくべきことだろう。策略的なにおいはするとしても。


小沢代表は留任会見で、大連立ー政権協議の考えが役員会でにべもなく拒否されて「プッツンした」と語ったが、小沢さんの中には、なんとしても政権をとりたいが、まだまだ若い民主党には、厳しい衆院選で勝てる力量がない。ならば、この閉塞した政治状況を逆手にとって連立協議にのってみるのも一つの選択ではないか、という切羽詰った思いがあったにちがいない。


そこに党内説得の手続きや、国民への説明といった配慮を欠いたところが、独断・密室といわれる理由だが、ここに党首という政治リーダーの孤独と重圧をみることも可能だろう。安倍元首相の場合も、立場や状況の違いはあるものの、自らの政治信条・目標とするところと、政治の現状とのギャップに追い込まれていく、という事態は共通している。


現在の日本の政治的な状況が、政治理念・信条を通そうとすると、現実政治(政治勢力の思惑)の壁に突き当たり、引き裂かれて閉塞する、というところにあることはよく認識しておくべきことではないか。

幼児虐待は、寂しい

人の子供を預かって育てることには、自分の子供を育てる以上に愛情と忍耐とがいる、ということが現代の日本ではもはや通用しなくなった。かつては、子供を宝物のようにしていつくしむ心が、広く多くの人に当然のこととして共有されていたから、子供を預かって立派に育てることも広く行われた。


自分の子供であっても虐待して殺すのだから、この若い施設長においておや、かもしれない。家族、あるいは家庭が崩壊し始めて、この解体はいったいどこまで進行するのだろうか。結婚はしたい、子供は好きで育てたい、だが、家族あるいは家庭が形成できない、という深刻な問題も広がっている。


きょうの産経新聞のオピニオンプラザに「家庭の料理が『心』を育てる」という武藤富美さん(福岡県、主婦)の入選作が載っている。


「食は体を創り、心を育て、家庭を築き、命繋ぐ柱」
「家庭料理は技術と心をつたえる過程が見え、感動と感謝や感性が生まれる」


外食がはやり、できあいのものを買った方が安いし、早いし、便利だ。そうこうしているうちに、家庭料理の食卓が消えた、あるいは「個食」の寂しい光景と化した。
もちろん、たまの外食はうれしいし、忙しければできあいもやむをえない(調理しだいではおいしい)が、ベースは家庭の料理だ。


武藤さんは「食べ物は自分が食べるだけでなく、人と地域と自然と繋がるものだとの想いは深く」と述べている。

自然と自然を耕す農と、食と食で生きる身体についての、もっとおおらかで豊かなイメージを作り直さないと、このままでは、自然も身体も家族も、機能性と効率性に追いまくられて、寂しく切り離された個体へと限りなく解体されていってしまうだろう。

福田・小沢の政治的賭け

小沢さんの辞任表明で、政局は一気に不透明になった。しかし、この状態はさほど悪くはないのではないか。というのは、福田首相も、小沢代表も、いわば自らの政治信条に基づく賭けに出て、次の時代に向けて活路を開くという、まずは積極的な姿勢をとったからだ。


福田首相にとって、連立構想の下に政策協議に踏み込むというのは、大きな賭けであったにちがいない。それは政権をとりにいったときからの、戦略であり、これしかないという選択であった。一方、小沢代表にとっても、ここは日本の政治の大きな課題を一歩前へ踏み出す、重要な機会とみえた。


小沢さんは会見の中で「国連の活動以外は軍隊を派遣しないというのは、今までの政府の方針の大転換であり、憲法解釈の大転換だ」といっている。これは、単なる策略と言うことではないだろう。福田さんも、恒久法ができれば、テロ特措法の成立に必ずしもこだわらないと明言するのは、大きな決断だろう。


もちろん、両者の決断が、もっと大きな政治理念からして適切かどうかという議論はある。硬直した政治状況の打開のために、両者の思惑が一致したところへ落とし込んだという策略的な臭いがしないでもない。

小沢さんは、民主党はまだまだ若いので、連立政権でもまれ鍛えられれば、党としても力がつくといったことも言っているが、これもとってつけた論理のようにみえる。


しかし、いずれにしろ、福田首相も小沢代表も自らの信条を明らかにして、動いた。政治が広く見えているという状態は悪いことではない。という意味からすれば、小沢さんももっと説明責任を果たすべきだろう。マスコミ批判までぶちあげたが、いきなり辞任表明の会見ではなく、記者を集めて、コトの重要性と自らの信条を訴える機会はいくらでもあったのではないか。


民主党内についても同じだ。いかに党役員のレベルが自分の信念の領域まで達していないからといって、やってられない、やめますよ、では、あまりに「高貴なる孤立」ではないか。産経新聞の政治部長が「小沢時代の終わりの予感」と題して書いているが、こうも言いたくなるだろう。

企業経営における世界レベル

中部電力社員のうつ病・自殺をめぐる訴訟の控訴審で、再度、被告の主張が認められた。「行過ぎた指導や長時間労働が心身に過重な負担を及ぼし、うつ病の発症と自殺には、業務起因性が認められる」というものだ。


どの企業にとっても、パワハラやセクハラ、それにうつ病といった問題への取り組みは重要なものになっている。それだけ深刻な状況になっているということで、多くの企業が健康相談室を設け、専門家を置いて、真剣に対策につとめている。


しかし、一方で企業は効率的な経営を求められ、成果をあげるために、社員をより有効な人的資源と考えることを余儀なくされている。そのことが、個々の社員に過重な負担を強いる結果になっていることも否めない事実だ。


こうした悪循環ともいえる「会社経営」「組織のあり方」「会社人間」に対して、何かもっと抜本的な方策といったものはないのか。


企業経営の論客として定評のある、前花王会長の常盤文克さんの「日本人を苦しめる『人』と『会社人』のギャップ~企業民俗学が求められている」(日経ビジネスオンライン)に目がとまった。


常盤さんはこう言っている

「企業における人は、単なる労働力や人的資源という言葉では片付けられない存在です。事実、一昔前の日本企業は人を重視し、個性を引き出そうとする大家族主義的な経営スタイルが一般的でした。 ところが米国流の経営スタイルが浸透するようになってから、人を重視する発想が薄れてきているようにお思います。もちろん米国流の経営をうまく取り入れたことで、日本経済が大きく成長してきたことも事実です。しかし、それが結果的に社員を疲弊させ、閉塞感を生む一因となっていることを忘れてはなりません」


続けて
最近のビジネス論には、人の心とか感性といった「情」の部分が入ってこない。しかし、「人は『理』だけで動くでしょうか。情と理を対立概念で捉えるのではなく、両者を一体化していく経営手法が問われます。難しくとも企業はこれに挑戦すべきだと思います」


非常に優れた見解だと思う。もはや日本企業も、米国流の世界レベルの規準を導入せざるを得ない。しかし、これは決して、唯一つの世界標準なのではない。さらに求められている世界レベルは、『理』に勝ちすぎた論理ではなく、情と理を対立からさらに高次の統合された(一体化した)レベルまでもっていくことだ。


この課題は、日本企業こそが目標に掲げ、常盤さんが言うように、これに挑戦していくべきものだ。これが、まさに世界レベルであることは言うまでもない。
常盤さんは、具体的な一体化の方法についても述べておられる。ひとことでいえば、会社という組織があって、社員という人材がいるのでなく、個々の多様な個性や意欲をもった人間がいて、組織があるということだ。


ゆえに、その多様性をそこなわず、それを生かす工夫(統合的な組み方)を、組織のほうこそが考えるべきだということになる。

「究極のパット」は賞賛に値する

青木功が65歳で日本シニアオープンを制した。最終日、最終ホールのあの6メートル、フックラインを沈めた、心技一体の凝縮された「究極のパット」は見事と言うほかなかった。


65歳のエージシュートでの優勝も感服するばかりだが、これは世界のアオキにとってみれば「おれも若いね、見上げたもんだ」と、あっさり言ってのけるようなことだろう。そのことよりも、インタビューで「好きこそ、ものの上手なれ。これは地でいかないと駄目なんだ」と答えていたのが印象に残った。


青木の独特のスイングスタイルはよく知られている。この独自のスタイルで世界レベルで十分に闘い、今回は、その自在なスタイルと、パットの魔術師の異名を究極といえるまでに発揮して見せた。これが青木の「地でいく」ということなのだろう。

プロスポーツの世界も技術の開発・研究の世界でも、世界のレベルで闘うというのは並大抵ではない。しかし、世界標準といわれるものは、必ずしも世界レベルということではない。グローバリズムは、単にアメリカンスタイルということも多い。


肝要なのは、やはり独自性ということではないか。その独自性を、まさに自分にあった「地でいく」ことに徹したところで、その心技一体は、世界的なレベルへと通じていくということだろう。

世界レベルというのは、その水準に達した複数の独自性を、相互に承認しあうところに成立するのであって、ある優位なスタイルがどこにでも通用する、ということをいうのではない。

この改革をゆるめるのはおかしい

防衛省の守屋前事務次官が、倫理規定をハナから無視したかのような厚顔無恥の業者癒着を繰り返し、中央官僚の腐敗と堕落と責任意識の崩壊がこれほど進行しているのに、公務員制度や行政法人改革の手をゆるめてしまうというのは、いったいどうしたことなのだろう。


福田政権は「行革は票に影響しない」と考えているのなら、これは大違いではないか。こんなゆるゆるでは、次の選挙でまた手痛い目にあうだろう。構造改革による「ひずみ」を緩和する手立てが必要と言うのは、まだ分かるが、公務員制度改革はさらにドラスティックにやらなければならないことではないか。


それは、誰の目にも明らかなのではないか。どこに政治が「官僚寄り」になる必要があるのだろう。キャリア制度の廃止、天下りの渡りの禁止など、当然実現すべきことでしょう。


それにしても、守屋さんという人は、どういう神経の持ち主なのか。みえみえの業者癒着が、汚職にも通じる疑惑と言うのは、子どもでも分かることだ。それを、犯して当然としているのは、守屋さんが、自分だけはそういう範疇から除外されている、と考えていたと理解するほかない。倫理規定も、この人には適用されないのだろう。これは、特権意識にさらに輪をかけたおそるべき特権意識というほかはない。


自分だけは、ルールを決める立場にはあってもルールを適用される立場にはない、それを自分だけは超越しているというのは、あらゆる権力の独裁に通じる道である。それはもう20世紀に清算したことではなかったのか。それがいまも日本の官僚組織の中にあるのなら、そのキャリア制度は廃止されて当然なのではないか。

「新聞広告も戦う時代」

電通の高嶋社長がインタビューに答えて、「クロスメデイアによる広告や販売促進を広告主に提案できるクリエーターや営業マンが求められており、『ストラテジスト(戦略家)』の育成が最大の課題です」と述べている。


インターネット広告の台頭、影響力の増大に、どう対処するかという質問のなかで、高嶋社長は「ネット検索機能を使えば情報は数多く集まりますが、基本情報を判断する玄関口の役割を果たすのはやはり4媒体(テレビと新聞、ラジオ、雑誌)」「つまりは携帯電話、ネット、4媒体など複数のメデイアを組み合わせた企画をどう提案できるかがカギになります」と答えて、電通においては「人がパワーの源泉」だから、最初にあげたマンパワーの育成が課題なのだと語っている。


高嶋社長は「取り組みは始まったばかり」とも話している。クロスメデイアの考え方は何も新しいことではないが、日本最大の広告会社が「クロスメデイアの戦略家を育成していくのだ」と語ることには、大きな意味があると思う。


10月20日は「新聞広告の日」だった。産経新聞は前日の19日付けで作家・作詞家の秋元康さんに「新聞広告への注文」を聞いている。


このなかで、秋元さんは「新聞も(既存の)ルールを壊していい時代に来ているのではないか」と述べ、テレビも最近「スポンサー枠と番組の中身を連動させる方向性で揺れている」と指摘。それは「制作と編成と営業がはっきり分かれている」からで「コンテンツの連動ができていない。新聞社も同じ」と言う。


秋元さんは「たとえば、スポーツ面のある記事の隣に、次世代DVD規格のせめぎ合いにからめた情報機器の話がドンと載ったら、効果的ではないですか」と、刺激的なアイデアを述べ、「それでもまだ、アザトさではゆるい。実は、時代はそこまで来ています」と話している。


クロスメデイアに可能性を見るなら、新聞も大きく変わらなければならない。「新聞の中の既存の枠組み、ルール」を取っ払うほどの戦いをしなければならない、というのが秋元さんの注文であった。

なるほど戦略的PR、か

前回、インテグレート代表、藤田康人さんの論に対する須田さん(サイバーエージェント)の異論の話を書いたが、その藤田さんが持論である「広告ではない戦略的PR」について解説をしている(日経ビジネスオンライン)。これがなかなか示唆に富んでいる。


PR(パブリック・リレーション)というと、まだ多くの人が広報と答えるが、藤田さんは、「戦略的PR」「マーケッティングPR」と呼んで、広報とは一線を画すという。
その一線というのは、企業の製品・サービスに限った情報なのか、その情報に公共性や社会性が加わっているかの違いのことだ。

「こんな新製品を出しました」「自社の製品はこんな特徴があります」というレベルの情報では、それほど社会性があるとはいえない。そこで、戦略的PRには、メデイア側が、番組や記事というコンテンツの中に組み込む必然のあるストーリー作りとして、「情報クリエイティブ」が必要になる、という。


このクリエイティブの内容について、いろいろと考え方や手法が語られているが、私が納得したのは、戦略的PRのチームに業界に通じ、専門家とコミュニケーションが取れる人材が必要との指摘だ。


私の考えでは、企業の広告情報と、一般的な記事や番組になりうる情報との間に本来は区別はないはずなのだ。なぜなら、企業の情報発信もマスコミ(メデイア)としての情報発信も、同じ大きな社会の中にあるからで、本来は同等の価値を持つものだ。それを、区別しているのは、ひとつの企業の限定された商品やサービスに関する情報か、そうではなく、ある広がりを持った情報か、の違いに過ぎない。ということは、広告情報であっても、それに社会的な視点や広がりを付加することができれば、一般の記事(番組)コンテンツに転化するはずなのだ。


その視点というのが、ひとつはいうまでもなく「消費者の視点」であり、もうひとつはその領域の専門家の視点だ。このふたつの視点が、情報に公共性や社会性、あるいは話題性としての広がりをあたえてくれる、ということになる。

異なるメデイアは相乗する

「初音ミク」に関心があるわけではないが、このバーチャル歌手を生み出したソフト制作会社の代表が、初音ミク現象をとりあげたTBS系「アッコにおまかせ!」を批判したのには興味をもった。

番組には制作会社の意図するところは伝わらず、逆にこの人気を支えているオタク叩きの悪意ばかりがみえたというものだ。代表は、TBS側に「当初から、(初音ミクに)興味がなかったし、愛着もなかった」「(当社の)マスコミに対する認識の甘さが露呈する形となってしまいました」と嘆いている。


ネットを中心としたメデイアとテレビや新聞といったマスメデイアとの間で、このような確執というか、こぜりあいというか、そういう行き違いはこれからもしょっちゅう起きることだろう。このバーチャル歌手は動画投稿サイト「ニコニコ動画」で人気が急騰したそうだが、こうした現象にマスメデイア側が無理解であったり無関心であったりというのはありうることだ。制作会社の代表が「自分たちのマスコミへの認識が甘かった」と言うのは、マスメデイアへの信頼や善意の期待があったのに、それが裏切られたということだろう。


一方で、ネット系の人たち、それを好む人たちの間に、きわめて閉鎖的な、架空の世界で自足してしまう傾向が強いことも否めない。もちろん、バーチャルに対してリアルがあり、このリアルの世界のほうが重いのだなどと言う気はない。マスメデイアも、こちらがリアルなどという権利も根拠もないのであって、このほうがよほど真実や事実から遠いということもあるのだ。


しかし、ネットとテレビや新聞といったマスとの間に対立ではなく、互いに効果的に影響しあう相乗といった関係はありえないのだろうか。


日経ビジネスオンラインで、キリシトールの仕掛け人として知られるインテグレート代表・藤田康人さんの「楽しいテレビ広告ありがとう。でも商品は買わないよ」という論に対して、同じく広告についての論陣を張る須田伸さんが異論を提起している。


藤田さんの論のなかに「ある飲料ブランドがミクシーで、製品コミュ二ティーを開設し、すごいアクセス数を稼ぎ出し成功事例としてマーケッティングの世界で話題になりました。ところが、その製品の販売は全く増えませんでした」とあるのに、須田さんが、「私はそうは思いません。広告は、商品の売上を伸ばすための要素の一つではありますが、すべてではありません。オールorナッシングで議論するのは非常に危険な気がします」と反論。


須田さんは、広告の効果は1年、2年後、さらには広告の質の高さによっては10年、20年後にも現れるものだといい、「人の購買というのは、単純な損得だけではありません。ブランドというものは、その単純な損得を超えたところにある」と強調しています。

もちろん、藤田さんの論も、何も短期的な効果や販売数量の増加を広告の本来の目的だといっているわけではありません。むしろ、広告における時間の持つ価値などという点では、考え方は同じなのではないか。

ところで、須田さんが言う長い時間をかけて醸成されるブランドという価値、はとても重要なことだと思います。
デジタルの切り刻まれた時間は、すべてを数字化する効率と瞬間的な効果をもたらしますが、アナログのもつ波動のゆらぎや時間の蓄積がもたらす厚みを弾き飛ばす傾向があります。本来、これはそうあるべきものではないはずです。効率と厚みが共存する、いやそれによって相乗する統合的なあり方があるはずです。


異なるメデイアが、まさにクロスする、そのクロスメデイアの領域は、中間的な場所なのではなく、もともと本来的な、統合的な場所であるべきでしょう。

携帯電話と紙の連携

ネットなどと紙の融合や連携について前回も書いたが、広告分野でもいろいろな試みが行われている。このニュースペースの「ドコモコインバージョン」も、そんな連携プレーのひとつだ。

たとえば、企業の資料請求を、ニュースペース掲載(産経新聞紙上)の携帯電話番号で行えば、「ケータイ代200円分をもれなくプレゼント」といった具合だ。


ドコモコインの最大のメリットは、電話をかけたユーザー側にも、携帯料金上での還元が行われるということだろう。もちろん、広告を出す企業側にとっても、多くのお客さんに来てもらえるという利点があるわけだが、この考え方の新しさは、ユーザー側に視点をおいていることだ。

携帯サイトがさらに拡大し、携帯での検索やサービスもさらに広がるだろう。これにともなって携帯と紙(新聞や雑誌など)との広告分野でのクロスメデイアも進化していくだろう。ニュースペース・コム社としても、いろいろなところとタイアップして積極的に試みていきたいと考えている。

ブロガーは編集長

朝日と日経、読売がネットで提携するという。産経はいち早くマイクロソフトと組んで新しいニュースサイトを立ち上げた。ネット時代の新聞事業・経営をどうするか。答えはアメリカでも出ていない。

ネットと紙(新聞など)の融合といっても、どういうことなのか。紙の側も手探りだが、ネットの側もまた手探りといっていい。

もちろん、ネットの側は時代の波の中にあって技術革新も著しい。情報の発信においても、また広告手法においても目覚しいものがある。しかし、その中でも、まだまだ見えていないものも多い。


先日、「ブログマーケティング」のセミナー(日経ネットマーケティング主催)に参加した。その中で百式管理人の田口元さんの話が面白かった。「売りにつなげるブログ活用法」という実践セミナーだったが、田口さんは「企業側からは、影響力のあるブロガーをたくさん集めて、すぐ販売につなげること」を求められるが、これはダメだと釘をさした。むしろ少人数で、ブロガーにきちんと商品説明をすること(および、その構築)が、口コミとしては広がるのだという。


また、すぐに書き込み量や応募数といった数字で効果を計りたがるが、数字は大事だが、まだまだ効果測定の方法も即、販売に結びつける手法も確かなものになっていない、と強調した。まずは販売へとつなげるステップであり、やはりブランディングの視点が欠かせないという。


田口さんはブログを雑誌に、ブロガーを編集長にたとえて説明していたが、はからずもこれがネットと紙の親近性を示すものと思えた。さらに、ブログマーケッティングは口コミの世界であり、この手法や成功例を、やはりマスメデイアで宣伝しないといけないと、指摘していたのも面白かった。

象の背中は現代の宗教説話

秋元康原作の映画「象の背中」を試写会で見た。「5回は泣く」という話だったが、その通り、なかなかの感動作で、涙が出た。「末期のがんで、余命半年」と、医者に宣告されるという設定は、誰でもが身につまされる。いま、医者は冷酷と思えるほどに、告知をし詳細を知らせるのが一般的だ。


余命半年と宣告されて、何気ない日常の生活の重みと幸せを痛切に思い知る。その「今」の幸せを最期まで生きたいがために、主人公(役所広司)は、いっさいの延命治療を拒否する。肺がんというのに、ホスピスに入った後もたばこをすい続けるシーンが何度も出てくるが、何か痛々しさとすさまじさを感じさせる。


主テーマは「象は群れを離れて死に場所を探す旅に出るが、自分は孤独のまま姿を消すことはできない。愛する者たち、家族に見送られて死にたい」ということだ。家族のつながり、家族でいることの幸せが描かれるが、そこには愛人も登場し、縁遠かった兄も登場する。ただ、主人公の妻や息子、娘がちょっと理想的に描かれすぎで違和感が残る。あの妻の包容力は、作家の願望が強く反映されているのだろう。


浅田次郎が「単なる生と死のドラマではない。苦悩と懺悔と解脱の道程を示す、現代の宗教説話である」とコメントしているが、なるほどと思わせる。「限りある今を生きる」「家族の愛に見守られて」というのは、それはそれでいいのだが、秋元康の狙いは「自分が生きてきたこと、生きていることを、その良し悪しを超えて、すべて丸ごと肯定したい。そういうふうに救済されたい」というところにあったのではないか。


主人公が、ホスピスに見舞いに来た兄に「平静を装っているが、本当はもっと生きたい。死ぬのが恐い」といって泣きじゃくるシーンが、印象的だ。

調整型では行き詰る

福田さんが首相になった。「満を持しての」登板という見方もあるが、大方の関心は、いつ総選挙になって、そのとき、自民党が勝てるのか、負けて小沢民主党政権誕生となるのかどうか、ということだろう。


与謝野官房長官が最後の会見で、興味深いことを言っている。

「(安倍内閣から福田内閣への転換を)後世の史家がどう評価するということを、今から予想するというのは、大変難しい話なんですが、やはり新古典派が言っていたような、少数の勝者と多数の敗者というようなイメージというのは、安倍さんはそんなことは言っていないが、そういう市場が全てを決めるんだという原理主義的な考え方というのは、おそらくこれを機会に薄らいでいくんじゃないかと思います」

それで、また格差是正の名の下にばらまきに逆戻りする懸念があるという質問に対して、与謝野さんは 「財政規律は守らなければならない。また、地域の格差は発生している。公共事業は抑制的にやっていくなかで、国、地方の格差は是正していくということですから、この方程式はそう簡単に解けない。解けないけれど、解けるような努力をすることが政治の姿勢としては、私は極めて大事なんだろうと思います」
と答えた。


かくして、「調整型」の福田政権の登場ということになるのだろうが、はたして、市場原理を求める世界標準の圧力は薄まるだろうか。福田政権は、それを薄めるために登場するのだろうが、世界の流れがより強力な構造改革を要請してくる事実になんら変化があるわけではない。

それで、福田政権は、小泉改革がもたらした負の部分、すなわち格差の問題を、さまざまな修復作業によって、いくらかでも緩和しよう、ということになるのだろうが、この格差の是正こそ、修復などではとてもすまない問題なのではないか。年金の財源の問題にしろ、老人医療費の問題にしろ、また地方の見直しにしろ、どれひとつをとっても、「そう簡単に解ける問題」ではなく、調整ではやりきれないものばかりだろう。


安倍さんが、小泉改革の後継をうたって登場しながら、また公務員改革や地方への権限委譲などを進めながら、倒れざるを得なかったのは、小泉さんのように孤立を恐れず果断にやればよかったものを、変に義理を立て、和を気にしたからではなかったか。そのちょっとしたすきを、旧来の族議員と官僚たちに突かれて、いわば身内に足をすくわれたのである。

とすれば、福田政権の場合は、党内がこぞって調整に動くのだから、一定の修復という成果をあげるだろうか。その修復を、表面的なその場しのぎでもいいととみれば、成果だろうが、抜本的な対策は置き去りにされるだろう。「難問解決に努力した」ということだけを残して。そういう状態で、総選挙に突入となるのではないか。

ネット広告は1人でやる

ネット広告の世界もそう楽ではなさそうだ。エキサイトが2四半期連続の赤字になった。女性専用サイトの強化で巻き返しをはかる戦略だが、バナー広告がもう低調というのは以前からいわれていることだ。


ネット広告にからんで、ノゾムドットネット代表取締役の吉田望さんがインタビューにこたえて、興味深いことを言っている(日経ビジネスオンライン)。

「昔は広告業も1人でやっていたんですよね。お得意様も1人、広告屋も1人で、その人がコピーを書いて、メデイアも手配して、『こんなのどうですか』と膝を突き合わせながらやっていたんです」

「集団戦ではなく、互いの顔が見える個人的な関係で進めていくメリットというのは、今の時代に大きいと思いますね。そういう場があると、『じゃあ、コピーを10案づつ持ち寄りましょう』みたいなコミュニケーションができるでしょう。そういうふうになったほうがいいと思うし、まあ、そうなっていくんじゃないかなって、僕は考えています」

「僕らはメデイア・ニュートラルです。電通の場合は『これをやりますから最低10億円ください』となりますが、僕らは『50万円をかけて、まずウエブからはじめましょう』、と」

電通出身者として、なかなか刺激的な発言ですが、吉田さんは、ウエブの方も意表をつくような面白さを打ち出す企画がまだまだ少ないと指摘しています。

「バナー(広告)を出して、商品名を検索させるよりも、見ている人たちが『おっ』となる企画を考え抜いて、そこにきたお客さんをとっていく、しかも、その企画がブランド作りに役立つという手法を、もっと考えるべきですよね」

「今まではテレビ広告というのが、エンターテインメント機能をコンテンツにしてやっていたけど、ウエブ広告なら、また違った形で展開できるのではないでしょうか」


もうひとつ、こんな発言もあります

「新聞なんかだと特に、記事はニュース、広告は広告という意識の棲み分けが強いですよね。それはそれで必要なことです。ただし、面白い広告というのは、すなわち面白いニュースのこともあるんですよね」

まったくその通りですね。わが社(ニュースペース・コム)は、そういう新聞社の枠組みを超えてあたらしい広告スペースを提案しています。そういう理解が広まっていくといいんですが。吉田さんは、さらにこんなうれしいことも言っています。

「テレビ、新聞、雑誌(というマスメデイア)が全部、淘汰されるなんてことはないです。メデイア再編というのは、たとえばLPレコードがCDに取って代わった、というような変化ではない。いい新聞、いい雑誌は残っていくということですよ」


吉田さんは経営者について、「(ウエブを代理店任せなどにしないで)関心を持っている経営者は、ブランドをつくっていくという気概がある。そういうパートナーシップを築けるところだったらどこでもいいですね」と言っている。

これからのサイト構築やネット広告を考える上で、非常に参考になるのではないか。

広告ブンガク論…いいですね

修学旅行ブログの不人気は、年配の教員にも問題があったのだろうが、まるで学校の延長のようなお仕着せのブログでは、生徒たちもおしゃべりする気にはなれなかっただろう。

それでオフラインのガイドブックも作ってアピールするそうだが、「古都・奈良」の魅力をどう10代の生徒たちに伝えるのか。その伝え方が、生徒たちの心に届くものであれば、オンラインであろうがオフラインであろうが、人気を取り戻せるだろう。


で、心に届く伝え方とはどういうことか。


サイバーエージェントの須田伸さんが「広告ブンガク論~人の心は何で動くのか」というコラムを書いている(日経ビジネスオンライン)。まだ未整理で、(笑)付きの「Web2.0 広告学」と断って、これからネットの世界が拡大・進化するにつれて、広告は「ブンガクになっていく。それも私小説のような」と言っている。

須田さんは「今まで、近所のスナックの近所コミュニティー内での影響力しかなかったのが、そこでの暴言暴論をブログに書くことによって『世界の中心になってしまう』可能性がある」という。

そういうところでは、社会は「これこれすれば『儲かりますよ』というロジック」が一番大事なのではなく、「人は生まれ死ぬ」という、まさに文学的テーマがもっとも重要になる。広告戦略の一番のテーマも、これになる。

なぜなら、文学の中の人間の行動のほうが、経済学より、少なくとも人間の可能性を豊かにとらえている、からだ。ゆえに、人間の心に届く伝え方は、ブンガクを踏まえたものになる、いうわけだ。

後半の展開は、須田さんが糸井重里さんの論を引用しながら行っているもので、それを私が意訳した。 もとになっているのは『ソーシャル・ウェブ入門』の著者・滑川海彦さんと糸井さんらの座談会だ。これがなかなか面白い。糸井さんの「ほぼ日」で読める。

現実世界(日常)の具体性こそが豊かさの源泉であって、これをそのまま世界大に拡大した空間がソーシャル・ウェブの世界ということだが、糸井さんは「口語文体×まんが」がこの双方の世界を劇的に変えるだろう、といっている。

昭和は遠く、か

「昭和の生き証人」「昭和の参謀」などといわれた瀬島龍三氏が逝った。大本営参謀、シベリヤ抑留について「歴史的事実を語ってほしかった」という見方がある一方で、著書「幾山河」などでしかるべき戦争の総括はきちんとなされている、という見方もある。

作家の保坂正康氏は、口を閉ざしたのは「軍官僚としての本分であったのかもしれない」と述べている(産経新聞)が、戦争をめぐる個人の体験としては、語るに語れない思いもあったのではないか。それは軍エリートの瀬島氏に限らず、多くの兵士にもあったことだ。


それにしても「昭和は遠く」の思いがする。若いころ「明治は遠くなりにけり」といわれてもピンとこなかったが、昭和は遠く、は実感だ。瀬島氏とは生きた領域がまったくことなるが、美空ひばりもまた昭和史そのものだった。

今年は美空ひばり生誕70周年で、また盛り上がったが、亡くなってもう18年である。昭和63年の東京ドームでの「不死鳥」公演は、まさに昭和の終わりの最後の輝きであった。

いま貴重な映像と幻の音源をおさめたDVD、CDに顔写真入りフレーム切手10枚をセットにした記念商品が販売されている。関心のある方は、本日の産経新聞社会面、あるいはホームページwww.misorahibari.com をご覧ください。

首を取って気勢をあげるのはよくない

遠藤農水相が辞任した。安倍新政権はリングに上がる前に一発食らったようなものだろう。首相の任命責任は問われるだろうが、これで政権運営能力まで「問う声が高まるのは必至」(朝日新聞)というのは、どんなものか。まだ、新政権の仕事はこれからではないか。

遠藤氏の辞任はやむをえない。それは倫理や政治とカネの問題ではない。ただ「不適格」だからだ。自分が組合長をつとめるところが、補助金を不正受給して返還もしていないというのでは、話にならない。そういう不正の責任者が、国の農業政策の責任者でありようがないからだ。

そもそも補助金のぬるま湯につかっているからこそ、こんな甘えた不正も生じるのではないか。地元の実情にも通じ農政にも経験が深いというので、安倍首相は任命したのだろうが、ここが間違いだった。「不適格」は「不適格」というほかない。


それにしても朝日新聞の社説は「(事前の)調査能力以上に深刻なのは、どんなに気をつけたつもりで選んでも、結局は疑惑や不祥事から逃れられない、ということかもしれない。自民党はそういう政党なのだろう」とまで書いている。


では、民主党をはじめ、ほかの政治家たちは不祥事や疑惑とまったく無縁なのか。
政治(家)は本来、現実や時代の流れを見極めて政策(ビジョン)を立て、これを実行するに強力な交渉力や調整力を発揮することが最重要な仕事である。

倫理やカネの問題がすべてであるかのようにして、政治や政党を断罪するのは、一見威勢がいいが、こうした論理には、何か裏に別の政治的思惑があると見たほうがいい。

やはり「改革」である

舛添厚労相が年金記録問題で「絶対サボタージュは許さない。やらないのがいれば、当然首切りの対象になる」と明言した。拍手である。社保庁の解体、さらに年金財源など、根幹にかかわる問題についても、明確なビジョンを提示し、果敢に実践してもらいたい。

参院選では、論点が年金問題に偏りすぎて、憲法や安全保障、外交問題がわきにやられたことを残念がる意見もあったが、年金をめぐる問題に政府があまりに無策だったために、集中砲火をあびたのだ。国家が年金という基礎的な社会システムに対してビジョンと実行力を喪失しているのは、きわめて由々しきことなのだ。


それは、新内閣の課題である公務員制度改革と地方分権についてもいえることだ。
きょうの「正論」(産経新聞)で、屋山太郎氏がずばり、こういっている。


「公務員制度の改革は(1)人材バンクの設計(2)定年制、評価制度の導入-の仕事が残っているが、目標は公務員も民間並みの働き方にするということだ。161の独立行政法人、特殊法人などはすべて法的根拠を持って設立されている。ろくな仕事もないのに何千万円もの俸給をもらうポストを作って天下る。これはどうみても“汚職”だ。(中略)官僚が4500法人に2万8000人も天下り、そこに税金が5兆9000億円も流れているのは異常だ」


屋山氏は、明治以来の「官僚内閣制」から脱して、憲法の主旨通りに「議員内閣制」を確立しろ、と指摘している。戦後レジームどころか、日本近代のレジームをぶっこわさないと前には進めないということだろう。


屋山氏は、地方分権を阻んでいるのも「補助金を握って手ばなさない中央官僚だ」といっている。

ネット開放性ゆえの閉鎖性

名古屋の女性拉致・殺害事件について書いたところ、アップした途端に続報が掲載された。サイトの有害性や問題性が指摘されるのは当然のことだろう。


ここでは繰り返さないが、ネットのオープンでフラットな特質そのものが自己本位の閉鎖性を生むのだということは指摘しておきたい。犯罪ー有害ー規制という流れはこれはこれで必要だが、それだけではなかなか片付かないというところが難しい問題なのだ。


リアルとバーチャルという関係は、行き来自在という関係ではない。しかし、自分への執着だけに実感があって、社会や他人の存在感が極度に希薄で、何でも可能だという幻想をたやすく生むところでは、バーチャルからリアルへすっと移行してしまうのではないか。

リアルとバーチャルの間には、ズレがあり差異があり、障害や障壁が横たわっている。少なくとも、両者の間がもっとよく見えるようになり、バーチャルはバーチャルで完結するというのではなく、相互の間でもっと交換(クロス)が行われないと、ネット社会というのは成熟していかないのではないか。

有目的、無差別殺人

現職の警官が女性を射殺するような時代だから、相次ぐ殺人事件といってもめずらしくないが、名古屋で31歳の会社員の女性が路上で拉致され、殺害・遺棄された事件もサイトでは旧聞になってしまっている(新聞朝刊各紙は、大きく扱っているが)。

この事件、3人の犯人は、数々の犯罪で悪用されたサイト「闇の職業安定所」(朝日新聞)で知り合ったという。犯行の動機は、金がほしい、奪うなら弱い女性、顔を見られたので殺した、死刑になるのが恐くて通報した-とういう信じられない短絡さだった。

目的は金だが、相手は弱い女性なら誰でもよかった。お互いに素性も何も知らないまま、いや知らないからこそ結びつき、何の縁もない女性を襲い殺した。

女性は磯谷利恵さん。産経新聞によると、「囲碁の愛好家が集う名古屋市内の喫茶店に毎週通い、数日前も仲間と3時間を超える対局を楽しんだという」「交際相手は『明るい人だったんですよ』と話すのが精いっぱいで、言葉にならず泣き崩れた」。この重い存在が、サイトで知りあった男たちになんの機縁もないま抹殺された。


インターネットはよくいわれるように、自分の見たいもの、欲するもの、知りたいことをほぼ無限に与えてくれるが、一方で、自分が欲しくないものをシャットアウトする権利も同時に与えられる。この特性は、自発的に必要な情報を収集し、チェックし調査していくことには最適だが、一方で、自分が欲するものしかいらないという閉鎖性も生むことになる。


「爆発的広がりを見せるソーシャル・メデイア その実態は『反社会的』メデイアなのか」のタイトルで、小林雅一氏が、プロフやブログ、SNSといったソーシャル・メデイアが、本来開放的なネットの中で、「自分と同質の人達だけで交わる」閉鎖的な空間を作り出している、と指摘している(日経ビジネス・オンライン)

世界中の情報を収集し、また自在に発信も可能にし、その集約された情報を分類し、万人の関心の度合いに応じて検索案内する、このネットのオープンでフラットな空間の中で、それであるがゆえにこそ、自分の関心、欲求、目的だけでしか結びつこうとしない閉鎖的な空間が生まれるというのは、重要な指摘である。

小林氏は論文をこう締めくくっている。

「ともすればGrup Thinkに傾きがちなインターネットやソーシャル・メデイアへの対立軸として、伝統的なメデイア(新聞など)のもつアジェンダ・セッティング(世論の議題を設定すること)の役割はいままで以上に重要性を増している」

祖父殺しと朝青龍

山口県で祖父を殺した高1の少年が都内で逮捕された。殺さねばならないほどのいかなる理由が少年にあったのか。かわいがった孫に殺された祖父がなんとも哀れに思われてならない。

少年は医師の父親と歯科医の母親の次男で、両親は離婚。昨年8月ごろから、山口で祖父母と暮らしていた。祖父は少年の高校の担任に「医者になってほしい」と希望を伝えていたという。少年は成績も悪くはなかった。

祖父の期待がそんなに重荷だったのだろうか。祖父の存在が、これを抹殺しなければならないほど、うとましいものだったのか。

動機はこれからだろうが、父親殺し、母親殺し、妹殺しなどこの種の殺人の動機はなかなかその深部はわからない。今回の祖父殺しも、いわゆる憎悪や怨み、邪魔な存在といったものではないだろう。むしろ、誤解を恐れずに言えば、少年には祖父への甘えや愛着があったのではないか。事件の背景には、広範な規模で進行する家族の崩壊があり、愛情への強い渇きがあるように思われる。

もはやどの親も(もちろん私も)この種の事件を他人事とは思えなくなっているのが現在だろう。


朝青龍騒動で、支援するモンゴル人有力者が「朝青龍は病気なんかじゃない」と証言したという。1週間前に「朝青龍は本当に参っているのでは」と書いたが、この証言が事実なら、これはもう何をかいわんや、である。

もし、日本相撲協会もモンゴル帰国を認めて、早々と引退させようとしているのだとしたら、自ら伝統の心をないがしろにするものだろう。朝青龍以上に、風格が求められているのは協会のほうだということになる。

この騒動にも、何か肝心なものが欠けたままになっている。

検索=文化の時代

鼻歌で曲名や歌手名を検索して教えてくれる(日本語版が公開)。そこまで検索するか、と驚くが、鼻歌をデータベース化して世界中の「音楽のWikipedia」を目指すのだというから壮大だ。

日本では携帯が重要な市場という。こういうことで、携帯でも検索の流れが、ますます大きなものになっていくのだろう。


日経ビジネスオンラインの「Webと広告の未来」特集のなかで、Jストリームの白石清社長がこんなことを言っている。

テレビや新聞は「集客メデイア」だが、ウエブは「説得メデイア」で「役割が異なる」。
ウエブについては、「マス広告のみだったPRの枠組みが広がって、自社を、消費者に分かってもらえる効果的なチャネルが現れた」ととらえたらいい。

「サイトに訪れた人をもてなしを通じ説得する」

白石社長は「お客様がウエブサイトから企業イメージや商品イメージを汲み取っていく流れはもはや止めようがない」と述べ、いかに自社サイトを有力な「説得メデイア」として活用するかが重要と指摘している。


ということは、当然、膨大な量のサイトからいかに自社サイトに呼び込むか。サイトへの入り口になる検索ワードの選定や検索対策もまた広告上、重要になるということだろう。


ところで、「居眠り磐音(いわね) 江戸双紙」をご存知でしょうか。時代劇ファンなら先刻ご承知の大人気小説のシリーズ(双葉社、22巻で500万部超)。7月からNHKで「木曜時代劇 陽炎の辻」のタイトルでドラマ化され、山本耕史、中越典子で、視聴率も12-13%を稼いでいる。

このサイト、22巻のあらすじや著者・佐伯泰英氏のインタビューなどで「居眠り磐音」の全体像がわかるものになっている。NHKのドラマ化というタイミングをとらえて、サイトへの誘引も高めようと、実は検索ワードを前面に押し出した「ニュースペース」を産経新聞の文化面などに集中的に掲載するという連動作戦(検索対策もあわせて)を実施した。


これが有効だった。サイトへのアクセス数およびクリック率も予想以上に増加。サイトを通じて「もてなし説得して」、ファン層を広げたのは間違いない。

(検索ワードは「居眠り磐音」)

朝青龍と岡林信康

朝青龍の病名が「急性ストレス障害」となった。
今回は「詐病」ではないらしい。吉田相撲診療所長が「病的な状態」といっている。

出場停止と謹慎という厳しい処分に相当、精神的にまいったというのは本当だろう。横綱の責務を放棄して勝手な振る舞いをしたのだから、それくらいは当然の報いだという声が聞こえてきそうだが、これで本人の希望通り「モンゴル帰国」を相撲協会が認めることになれば、またぞろ批判が高まるのは必至だろう。

石原慎太郎氏が朝青龍問題も広い意味の「文明の衝突」と指摘していた(産経新聞『日本よ』)が、朝青龍にとってみれば、日本の国技といっても、横綱の責務や風格といったところで、もう長い間、それを素直に受け入れる土壌を欠いたままだったのだから(なかでも高砂親方を師として、そこから学ぶということにも程遠かったのだから)、いまになっていくら言ってもそれは「押し付け」としか受け取らないだろうし、また受け取れないだろう。


今回、相当、精神的にまいったということは、朝青龍個人の若さやわがまま(反発や反感を含め)といった問題もあるが、心の深い部分では、日本の流儀や精神性をどう受け入れればいいかについて葛藤もまたあるのではないか。朝青龍の性格や資質を考慮しても、これがモンゴル相撲の王者であったら、状況は全く違ったものになっているだろう。


朝青龍のことを考えながら、朝日新聞の文化面を読んでいて、フォークの神様・岡林信康が10月に日比谷の野外音楽堂で、久々の大コンサートを開くという記事に出くわした。

このなかで岡林が、こんなことを言っている。

「それまで(幼い頃ひそかに陶酔した江州音頭に気づき見直すまで)は例えばボブ・ディランと同じステージに立てるか自信がなかった。自分はコピーじゃないかというコンプレックス。それが、エンヤトットで初めて消えたんです」

「おやじは新潟の農家の生まれだが、牧師になり、民謡を捨てて賛美歌に走った。彼の中での明治維新でした。僕は大学の神学科に入ったが、曲折を経て自分の中の日本人を発見した。これはどの分野にも起きることです」

DJは変質するか

マードック帝国のダウ・ジョーンズ買収が正式に合意したということで、日本の各紙朝刊も、突っ込んだ情報と解説記事を載せている。

この買収、「カネになる」(マードック会長)質の高い経済情報(日経)の入手が目的であり、これは経済情報市場をめぐる世界規模のメデイア再編のひとつ、というのが包括的な見方だろう。

もうひとつ、新聞各紙が取り上げているのが、ウオール・ストリート・ジャーナル(WSJ)紙の「編集権」の独立の問題で、日経の編集委員氏は「世界的に企業再編の波が高まる中で、メデイア産業も例外ではあり得ない。それだけにニューズの傘下に入るDJとWSJ紙が変質するのかしないのか、注視していく必要がある」と書いている。

なるほど、マードック氏のこれまでの手法をみると、編集権の侵害は早晩起こるといっていいかもしれない。ただ、編集権の問題は、経営と編集現場とが鋭く対立したときに象徴的な問題になるのであって、それ以前に、WSJ紙が長年培ってきた情報の質の高さが貶められるところまで、その侵害が及ぶようなものなのかどうかが重要な問題である。

仮にそうであるとするなら、これはマードック氏にとっても自己矛盾であって、広義の意味での質の高さが減じるなら、それはやがてWSJ紙の価値低下につながり、グループの価値増大どころか重荷になることだろう。


ネット社会が進展すればするほど、かえって新聞のもつ「信用」を含む情報の質の高さが、相対的に価値を増大させてくるのではないか。少なくともひとつの方向性としてはあるのであって、もちろんネットが新聞を凌駕するといった異なるメデイアの敵対的関係というのも避けがたくあるだろうが、一方で、相互に補完しあい、相乗的な効果を引き出すという関係もあるはずである。

メデイアの再編の中で、新聞は変質するかといえば、変質する。質的な変化を余儀なくされるだろう。ただ、異なるメデイアの間で、新聞の情報価値が生かされる、そういう相互の関係というのはあるはずである。

朝青龍と長嶋茂雄

朝青龍が反省していると、協会にわびた。

テレビで元気いっぱい走り回り、へディングまでやっているのを見たが、なんといったらいいのか。協会はここまでコケにされて、いい加減な処分ではもうすまないと思うが、どうだろう。

朝青龍にとって、地方巡業というのは、どういう位置づけなのか。プライベートが優先するのなら、これはわれわれの目からすれば明白な職責(しかも横綱という重責)の放棄だが、朝青龍にとって、ここのところがよくわかっていないのではないか、いや、もともとよくわからないのではないか。横綱は相撲道に全身全霊を尽くすべきという、絶対的な忠誠の精神を理解しろというのが、土台むりなのではないか。

だから処分してもしょうがない、というのではない。処分は処分、ここは協会の姿勢が問われている。しかし、根っこにやっかいな問題があるのも事実だろう。

長嶋が日経に連載していた私の履歴書が、きょう終わった。「(ジャイアンツが)今後も盟主であり続けることができるか、すべては我々の『チーム愛』にかかている」と、ずばりここまで言われると、子供のころからの長嶋ファンとしては、だまってうなづくほかない。この文章に続いて、こうある。

家族愛という面で私は全くだめ親父だった。家族も子どもも何もかも犠牲にしてチームに捧げた」

これはある種、衝撃的な表明だ。

長嶋は「(野球道という)古い時代の教えをきちっと継承してきた我々と、今のプレーヤーとはスタイル、気質も違う。純粋に一つのチームに骨を埋めるというのはもう古い観念かもしれない」とも述べている。

古い観念は、ただ捨て去られ忘れ去られるだけか。そうではないだろう。イチローに多くのファンは、長嶋のいう野球道の新しい形を見ているのではないか。

民主は「歴史的大勝」ではない

今日のニュースに反応するなら、やはり「自民の歴史的敗北」でしょうが、昨日の夜からさんざん刷り込まれると、なんだか「歴史的」が本当でしょうかという気にもなってくる。この心理をちょっと敷衍してみると、自民が歴史的敗北なら、民主は「歴史的大勝」のはずですが、これはどこのマスコミもいってはいない。

なぜなら、民主の勝利ではあっても、こちらは「歴史的」というわけではないと、みているからだ。この点の認識はどこもほぼ同じで、産経新聞も朝日新聞も同様の指摘をしている。たとえば朝日の政治エディター氏は「政局に頭を奪われ、国会に混沌をもたらすだけでは、次の選挙で痛いしっぺ返しを食らうだろう」と述べ、民主党は「法案と政策を政権準備構想として」はやくまとめろ、と求めている。

2大政党制は20年も前から声高にいわれてきた。期待を予感させるときもあったが、ゆきつもどりつ、道なお遠しが現状だろう。本当に、次の衆院選に向けて、政権交代といけるのかどうか。小沢さんの求心力は強まっただろうが、それが安部自民党とがっぷり四つで組むところまでいけるかどうか。民意は「自民叱責」から「激動の政局」まで演出するだろうか。

選挙結果が自民の「歴史的敗北」を確定したころ、作家の小田実さんが亡くなった。「ベ平連」は団塊の世代にとって、非常に懐かしい運動だった。それは政治運動というより、たぶんに風俗的な現象だった。「ベトナムに平和を」「市民連合」という言葉は、当時は新鮮にも映ったが、その後の歴史が示したものは、そこから一歩もでない、でられないという現実だった、といっていい。

祈りと化した「平和」と「護憲」は、それはそれで貴重なものだという人もいるが、その流れをかなりコアな部分で汲む民主党が少なくとも政党なら、しかも2大政党の一方の極であろうとするなら、そこから一歩を踏み出して、現実を踏まえ次の時代のビジョンを展開すべきでしょう。民主党もまた「戦後レジームからの脱却」を求められている、と思うのですが。

そうか うなぎ

30日は土用丑の日。そういえば、このところうなぎの蒲焼とは無縁だった。

ときに、猛烈にうなぎが食いたい、と思うのは、やはり日本人のせいか。日本人は海洋民族ではなく農耕民族とあっさり言う人もいるが、農耕民族以前のはるか太古の昔は、いうまでも海洋民族だったのであり、海辺に住み、北といわず南といわず大海原を航海していた。この原日本人のベースが、その後の農耕民族の日本人としての特質を形成したのは、いうまでもないことだろう。
その、DNAがときに、激しい欲求となって胃袋を刺激するのだ。というのはともかく、うなぎの輸入がなにかとピンチだという記事は、それはそれなりに面白いのだが、私の興味を引いたのは、記事の末尾のグーグル提供の広告。
「国産うなぎ蒲焼なら」(うなぎ蒲焼き専門工場、川口水産)。
輸入ものじゃないよ、うなぎはやっぱり国産でしょう。こういう思いにかられた人は「国産うなぎ」の文字に目がとまったでしょう。まさにグーグルのつぼ、ですね。
HPのなかに入ってみました。「美味しくなければ返金します」。なかなかの自信です。しかし、私はやっぱり、うなぎは少し値が張ってもお店で焼きたてを食べたい。と思いつつ、よくページを見ると、ありました
「正しいうなぎの食べ方」「専門店のたれの作り方」などなど。親切なHPです
いま、どこの企業も商店も、HPを充実させています。情報の発信も商品やキャンペーンなどの宣伝も、HPの中身にかかっている、といっても過言でないでしょう。
そうなると、いかに自社サイトにお客を引き入れるかが重要になってくる。「検索」および「検索ワード」をめぐる、さまざまな対策が練られるわけです。
わがニューススペースにとっても、ここらあたりがポイントなんです。

クロスメデイアの新商品

はじめまして。ニュースペース・コムの岳中です。

新聞や雑誌など活字メデイアの広告が、インターネットにおされ気味で、なかなか厳しい状況にありますが、ニュースペースは、こうした状況をなんとか打開しようと、あたらしい概念をもって新聞紙面上(当面は)に生まれた広告情報スペースです。どこがあたらしいかといえば、それはネット広告の世界では当たり前ですが、新聞の記事情報と広告情報をフラットにして親密にするという点です。「こうした記事内容を読む人は、それに親密な広告情報により強く関心をもつ」ということを、新聞や雑誌でも実践しようというわけです。

もうひとつは、ニュースペースは検索のワードを主として表示するサイト誘導の窓口という点です。ゆえに、新聞紙面上に掲載されるといっても、実質は新聞というメデイアとネットというメデイアを結ぶ、両者の間にあたらしく開けた空間ということになります。

クロスメデイアというと、もうずいぶんと使い古された感がありますが、陳腐になった割には、実質を持った広告商品はほとんど生まれていない、と私は考えています。ニュースペースが、クロスメデイアの有力な商品になるかどうかは、まだまだこれからですが、「検索(ワード)」を軸にして、オンラインとオフラインを縦横にクロスさせることで、さまざまな広告メッセージの可能性が生まれる、それに挑んでいるところです。
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代表取締役社長 岳中 純郎
代表取締役社長 岳中 純郎

産経新聞社で社会部記者のあと、朝刊編集長などを経験。その後、畑違いの総合企画室、総務局で仕事をし、2008年6月からニュースペース・コム社の社長。これまでの職業経験からいえば、これも予想外の展開。しかし、広告業界、それもクロスメデイアを標榜する世界に足を踏み入れて、いろいろと勉強しながら、結構楽しんでいます。

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